JR北海道

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入植者の暮らしと、食料・資源の生産基地「北海道」を支えた鉄道 明治になって、蝦夷地は「北海道」となる。入植地の拡がりとともに、鉄路は延びていく。入植者の暮らしと、食料・資源の生産基地「北海道」を支えた鉄道 明治になって、蝦夷地は「北海道」となる。入植地の拡がりとともに、鉄路は延びていく。

標茶町営軌道(簡易軌道)と太平洋石炭販売輸送臨港線
標茶町営軌道(簡易軌道)
[渋谷六男氏蔵]
太平洋石炭販売輸送臨港線
[石川孝織氏撮影]

道内各地に広がっていく鉄道網

2本のレールを使った運搬方法は、16世紀のヨーロッパの炭鉱が発祥だという。19世紀前半になり、イギリスで蒸気機関車が誕生した。日本に鉄道が伝わったときは、すでに乗客を運ぶものとなっていた。しかし、北海道では石炭を輸送するために鉄道は敷かれる。幌内炭鉱を皮切りに開発が進み、太平洋戦争後の復興期の道内には約160の炭鉱があった。その動きに合わせるように、鉄道は延伸され、新設され、全道に広がっていく。

内陸部へと延びた鉄道が、石炭の次に多く運んだのは木材。農地を開くために伐採した木は売れたのだ。1906(明治39)年の鉄道国有化のころから、停車場に隣接して製材所が建てられ、木材の運搬量は増えていく。苫小牧や江別、釧路に大きな製紙工場ができて、原木の輸送も増えた。そこで注目されたのが「森林鉄道」。1921(大正10)年、国有林の中に温根湯森林鉄道が開通する。蒸気機関車で走る北海道では初めての森林鉄道だった。

本州にはない鉄道がある。「殖民軌道」といい、入植者を道東の原野へと運んだ。釧路・根室への入植が増えたのは大正後期のこと。すでに適地は開拓され、残っていたのは交通の不便な土地である。そこに殖民軌道が敷かれ、1924(大正13)年、最初の「根室線」が開通した。動力は馬。春は農作業に必要な物資、秋は収穫した農作物を運ぶ。地域の重要な足となり、住民の生活物資を運び、暮らしを支えた。増える人口と貨物の輸送力を高めるため、昭和になるとガソリン機関車が登場する。戦後は「簡易軌道」と改称するが、人々の足となり続けた。

北海道で最初に開業した私鉄は「釧路鉄道」である。現在の弟子屈町にある活火山アトサヌプリ(硫黄山)で採掘した硫黄を標茶の製錬所まで運搬するために敷かれた。開通は1887(明治20)年。しかし、わずか9年で廃止となる。硫黄の産出量が減ったからだ。機関車と貨車は官営鉄道へと引き継がれ、路盤はのちに釧網本線の一部に再利用される。

さまざまな使命を課せられて、鉄道は北海道の隅々まで広がった。しかし、1960年代以降、石炭産業や林業は衰退、道路は整備され、自動車が普及する。時代のうねりに飲み込まれて姿を消した鉄道は少なくない。

馬車鉄道(北海道開拓の村) 馬車鉄道(北海道開拓の村)

馬車鉄道(北海道開拓の村)

簡易軌道雪裡線で活躍したバス改造ガソリンカー 簡易軌道雪裡線で活躍したバス改造ガソリンカー

簡易軌道雪裡線で活躍したバス改造ガソリンカー
1950年代前半[鶴居村教育委員会蔵]

釧路鉄道線路跡[石川孝織氏撮影] 釧路鉄道線路跡[石川孝織氏撮影]

釧路鉄道線路跡[石川孝織氏撮影]

炭鉱とともに発展した鉄道 〜「夕張鉄道」今昔物語〜

夕張鉄道の建設工事に活躍する7150(大勝号)1925年頃
夕張鉄道の建設工事に活躍する7150(大勝号)1925年頃
[三菱大夕張鉄道保存会蔵]
夕張鉄道独自の11形の14号機 鹿ノ谷車両区 1971年撮影 現在も夕張市に保存されている
夕張鉄道独自の11形の14号機 鹿ノ谷車両区 1971年撮影
現在も夕張市に保存されている[三菱大夕張鉄道保存会蔵]

いまから100年ほど前、札幌の中島公園で「北海道鉄道1000マイル記念」を祝うイベントが開催された。1880(明治13)年に幌内鉄道が開通してから張りめぐらされた鉄道網が、1916(大正5)年、全長1000マイルを超えたのだという。メートル法に換算すると約1609km、新幹線を乗り継いで新青森駅から博多駅まで移動できる距離だ。さらなる発展のきっかけが、1919(大正8)年に公布された「地方鉄道法」である。地方鉄道とは国鉄以外の鉄道のことで、工業の発展から取り残された地域の生産力を高めて、都市との格差を是正することが期待されていた。

地方鉄道の一つが「夕張鉄道」。夕張炭鉱で使う資材の運搬、採掘した石炭の搬出、増えていた旅客の輸送を目的に建設された。経営は、北海道炭礦汽船株式会社(通称:北炭)の子会社「夕張鉄道株式会社」だ。1924(大正13)年に設立、地方鉄道法での免許を得て、1926(大正15)年、新夕張(のちの夕張本町)と栗山の間に鉄路を完成させる。開通式の日、夕張は祝賀ムードに包まれたという。栗山への移動距離が短縮されたこともあり、初年度だけで利用者13万人を記録する。1930(昭和5)年には函館本線の野幌駅まで延伸、夕張と札幌が最短距離で結ばれた。その後、日中戦争から太平洋戦争にかけての戦時体制における石炭増産、戦後復興期の国の政策によって、炭鉱はにぎわう。夕張鉄道はというと、1952(昭和27)年にはディーゼルカーを導入、貨物と旅客を分離してスピードアップを図った。同年、バスの運行も始める。さらに1961(昭和36)年、夕張・札幌間ビジネス急行を走らせ、所要時間を30分も短縮した。ただし、夕張〜野幌は列車、野幌〜札幌はバスだった。

炭鉱のまちとして栄華を極めた夕張は、エネルギーの転換や廉価な海外炭の輸入に抗いきれず、次々と炭鉱が閉山してしまう。人口の減少、バスや自家用車の増加が影響して、1967(昭和42)年をピークに夕張鉄道は石炭の運搬量も乗客も減っていく。1975(昭和50)年、全線廃止。炭鉱とともに走り続けた夕張鉄道は、50年の歴史に幕を下ろした。会社はバス専業となり、鉄道が消えたエリアにいまは「夕鉄バス」が走っている。

夕張鉄道の建設工事に活躍する7150(大勝号)1925年頃
夕張鉄道の建設工事に活躍する7150(大勝号)1925年頃[三菱大夕張鉄道保存会蔵]
夕張鉄道独自の11形の14号機 鹿ノ谷車両区 1971年撮影 現在も夕張市に保存されている
夕張鉄道独自の11形の14号機 鹿ノ谷車両区 1971年撮影 現在も夕張市に保存されている[三菱大夕張鉄道保存会蔵]

いまも活躍中!日本で唯一の運炭列車
「太平洋石炭販売輸送臨港線(旧釧路臨港鉄道)

釧路臨港鉄道春採駅 / 1928年頃[釧路市教育委員会蔵]
釧路臨港鉄道春採駅 / 1928年頃[釧路市教育委員会蔵]
太平洋石炭販売輸送臨港線[石川孝織氏撮影]
太平洋石炭販売輸送臨港線[石川孝織氏撮影]

現役の地方鉄道がある。それは、太平洋炭鉱と釧路港を結ぶ「太平洋石炭販売輸送臨港線(旧釧路臨港鉄道)」。1925(大正14)年に東釧路〜知人が開通、石炭の輸送が始まる。翌年、路線は臨港まで延伸、旅客の輸送を開始した。さらに1927(昭和2)年、入舟町まで延びた。現在のJR根室本線・東釧路駅から春採湖の南側を通り、釧路川河口にあった入舟町駅までの約9kmに当たる。タンク式蒸気機関車3両、客車2両、貨車30両を所有していた。

釧路エリアの炭鉱の歴史は古い。採掘が始まったのは江戸末期。1856(安政2)年、現在の釧路市内の海岸で初めての試掘が行われ、翌年、白糠の石炭岬に移る。石炭は、函館に寄港する外国船の燃料となった。1887(明治20)年、春採炭鉱が開坑される。買収や休止を経て、1920(大正9)年創業の「太平洋炭砿」へと事業は引き継がれ、生産規模も拡大していく。馬車軌道では輸送が間に合わなくなり、石炭輸送鉄道の敷設が望まれるようになったのである。

炭鉱の活況で鉄道もにぎわう。1927(昭和2)年に夜間運行を始めるほど貨物の量は増えた。その後、路線バスの発達で利用者が減り、1963(昭和38)年に旅客営業は廃止、ますます増加する石炭輸送に専念するため貨物専業に戻る。1979(昭和54)年、「太平洋石炭販売輸送」に吸収合併され、同社の臨港線となる。2002(平成14)年、太平洋炭砿が「釧路コールマイン」に引き継がれ、生産規模は1/3に縮小されるが、炭鉱はいまも、石炭生産とともに海外技術移転の場として盛業中である。

北海道の炭鉱が華やかだったころの面影と鉄道の原点を見せてくれる太平洋石炭販売輸送臨港線、地元ではいまもかつての略称「臨鉄」と親しみを込めて呼ぶ人も多い。そして、連接石炭車など、昔から特徴的な車両が多く、鉄道ファンを惹きつけてやまない。

釧路臨港鉄道春採駅 / 1928年頃[釧路市教育委員会蔵]
釧路臨港鉄道春採駅 / 1928年頃[釧路市教育委員会蔵]
太平洋石炭販売輸送臨港線[石川孝織氏撮影]
太平洋石炭販売輸送臨港線[石川孝織氏撮影]

協力 : 釧路市立博物館、三菱大夕張鉄道保存会・奥山道紀氏

スペシャルインタビューVol.5 石炭産業の栄華と名残を感じてほしい
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