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北海道の鉄道発祥〜手宮線〜現在の北海道は、幌内鉄道から始まった。その支線である「手宮線」の変遷といまをたどる。北海道の鉄道発祥〜手宮線〜現在の北海道は、幌内鉄道から始まった。その支線である「手宮線」の変遷といまをたどる。

蒸気機関車「義経」と旧手宮線跡
蒸気機関車「義経」
旧手宮線跡

小樽の名所「旧手宮線」と国指定重要文化財

JR小樽駅から中央通を海側へ下って行くと、線路が敷かれた散策路が現れる。かつて小樽を走っていた「手宮線」の名残だ。レールも枕木も往時のままである。旧手宮線のように役目を終えた鉄道の跡は日本各地にあるが、線路を残しているところは少ない。国内外の観光客を惹きつけてやまないのもうなずける。

この線路の終着は旧手宮駅。いま、そこには「小樽市総合博物館」がある。破綻した第3セクターをリニューアルするにあたって、歴史や科学と共に「鉄道の博物館」を大きなコンセプトとして2007(平成19)年に再出発した。1階受付は昔の改札のような造りで、その奥の大ホールには蒸気機関車「しづか号」が静かに止まっている。まるでコンコースから駅を眺めているようだ。入館券は硬券を模したもの。自動券売機や自動改札機が導入される前、スタンダードだった厚紙の切符である。屋外の展示場には、寝台特急「北斗星」を牽引していたディーゼル機関車、現金輸送車、除雪車など50両もの鉄道車両が並ぶ。いずれも国鉄・JR北海道が譲渡したもので、現役時代は北海道の鉄路を走っていた。

その片隅に、レトロな洋風建築がある。見た目に美しいフランス積みのれんが壁と丸みを帯びた屋根が印象的な「機関車庫三号」と、強度が高く実用的なイギリス積みのれんが壁と片流れの屋根がたくましい印象の「機関車庫一号」。改築してはいるものの、明治期から機関車を格納してきた。2棟の建物の前にある「転車台」ともども「旧手宮鉄道施設」として国の重要文化財に指定されている。機関車庫と転車台は、いまも現役だ。博物館の目玉である蒸気機関車「アイアンホース号」は、機関車庫と転車台の本来の姿を見せるために走っていると言ってもいい。役目を全うしたはずの施設を動かし、手宮線のかつての姿を思い起こさせ、その歴史を伝えている。

旧手宮線(1) 旧手宮線(2)
旧手宮線(2) 旧手宮線(2)
旧手宮線(3) 旧手宮線(3)

港まちと空知の炭鉱を結んだ産業鉄道

北海道鉄道開通起点標
北海道鉄道開通起点標
蒸気機関車弁慶組み立てしゅん工
蒸気機関車弁慶組み立てしゅん工

手宮線は、「幌内鉄道」として1880(明治13)年11月に誕生した。まず手宮〜札幌が開通、2年後に札幌〜幌内がつながり、全区間の運行が始まる。幌内とは現在の三笠市にある地区で、明治期になって石炭の鉱脈が発見された。採掘した石炭を本州へと運ぶために敷かれたのが幌内鉄道である。

このとき、2つの輸送ルートが浮上した。1つ目は幌内〜室蘭ルート。輸送効率は悪くない。しかし、千歳周辺の泥炭地に路盤を築くのは技術的に困難とされたようだ。また、距離が長すぎて費用が莫大になることが予想された。お雇い外国人たちはアメリカの資本導入と鉄道運営を考えていたらしいが、この案は却下される。2つ目は幌内〜石狩川ルートで、鉄道と船を併用する案だ。これも却下される。当時の石狩川は、春先には洪水が多く、冬になると凍ってしまうという欠点があったからだ。つまり、当初は幌内〜小樽ルートは検討されていなかった。これを現実にしたのが、アメリカで鉄道をつくっていた土木技師ジョセフ・ユリー・クロフォードだった。小樽に張碓という場所がある。当時、頻繁に崖くずれが起きて馬車が通れなかったという。クロフォードは、そこに道路を完成させる。工期はわずか半年、しかも見積額を下回る工事費だった。これが決め手となり、幌内炭鉱と小樽港を結ぶ鉄道の敷設が始まる。1880(明治13)年正月早々のことである。

よく知られているように、幌内鉄道は、北海道ではじめての鉄道だ。重要なのは、そこではない。石炭を運ぶ「産業鉄道」だったことが重要なのである。官営から民営、そして国営へと変遷するが、幌内鉄道は、1987(昭和62)年に全線廃止されるまで石炭を運び続けた。その石炭は、小樽港から、のちに室蘭港からも本州へと出荷され、日本の近代化を支える。北海道の鉄道は、産業鉄道として誕生して、まちをつくり、新しい産業を育て、全道各地へと広がっていった。その原点が幌内鉄道なのである。

北海道鉄道開通起点標
北海道鉄道開通起点標
蒸気機関車弁慶組み立てしゅん工
蒸気機関車弁慶組み立てしゅん工

手宮線の誕生と変化を続ける鉄道

1896(明治29)年に「北海道鉄道敷設法」が公布される。そのとき、新たに建設されるべきルートとして函館〜小樽が挙がった。資金難や難工事に阻まれながらも1903(明治36)年、「北海道鉄道」として全線開通。2年後には幌内鉄道と接続され、函館〜札幌が1本の鉄路で結ばれた。これが現在の函館本線である。

その後、2つの鉄道の接続点から手宮駅へと至る区間が「手宮線」となった。しかし、役割はそれまでと変わらない。幌内炭鉱で採掘された石炭を小樽港まで運んだ。効率よく船に積み換えるために造設されたのが「手宮高架桟橋」。海上部分に大きくせり出し、石炭を積んだ貨車が船に横づけできるようになっている。小樽築港に石炭積み出し施設が建設されると、1944(昭和19)年に手宮高架桟橋は廃止される。いまは跡形もないが、桟橋へと続く線路の路盤を支えたれんが造りの壁は残っている。国指定重要文化財になった「擁壁」がそれだ。

札幌停車場
札幌停車場

幌内鉄道は、幌内炭鉱の衰退とともに存在感を失っていく。それは産業鉄道の宿命だろう。手宮線もだんだんと役割が小さくなってしまうが、昭和中期には行商専用列車として活躍する。通称ガンガン部隊、ブリキ製の缶にたくさんの鮮魚や干物を詰め込んで運んだ行商人たちのことをいう。その多くは、女性たちだ。1962(昭和37)年に旅客営業が休止されるまで、手宮線は「ガンガン部隊」を乗せて、札幌や空知の産炭地へと新鮮な魚介類を運ぶのである。

1985(昭和60)年、手宮線は全線廃止。完全に産業鉄道としての役目を終えた。残されたその線路は小樽の観光地として、イベント広場として、人々を楽しませている。手宮駅構内は「小樽市総合博物館」に姿を変え、地元の人々に愛されながら、北海道と鉄道の歴史を伝えて続けている。

札幌停車場
札幌停車場
スペシャルインタビューVol.4 発祥の地で手宮線の歴史と価値を伝え続けたい
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