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スペシャルインタビュー Vol.1 青函連絡船の光と陰、あの日といまを語るスペシャルインタビュー Vol.1 青函連絡船の光と陰、あの日といまを語る

語り継ぐ青函連絡船の会
事務局長 高橋 摂さん

Profile

大阪府生まれ。編集プロダクション勤務、フリーランスを経て出版企画会社設立。趣味である鉄道関係の編集書・著書が多い。1999年、「語りつぐ青函連絡船の会」の前身団体の結成に参加。2002年のNPO法人化を機に事務局長に就任。

青函連絡船、鉄道ファンを虜にする

「青函連絡船」は、船の中に線路を敷き、貨物列車を丸ごと積み込んで走るのが大きな特徴です。つまり、「海の上のレール」なのです。考えた人はすごいと思いますが、100年以上前に実用化されています。

子どものころから鉄道好きで、連絡船のシステムにも惹かれ、小学生のときには模型もつくっています。といっても、ベニヤ板にレールを貼った程度のモノで、模型の貨車を積み、畳の上を手で押して走らせていました。実物の青函連絡船との出会いは、二十歳のころ。当時、アルバイトしてお金が貯まると旅に出るという生活をしていて、北海道を旅行したとき、青函連絡船に乗ったのです。

編集者となったあと、ある出版社から、まもなく終航になる青函連絡船の写真集をつくりたいという相談があり、写真家・白井朝子さんを紹介したのが、いまにつながります。それから12年後、その白井さんが「2000年3月に函館で青函連絡船の写真展を開催したい」と言ったのが、「語りつぐ青函連絡船の会」の活動の始まりとなりました。

青函連絡船の二つの黄金時代

1908(明治41)年3月7日、函館〜青森間に比羅夫丸が就航して、国鉄青函連絡船の歴史は始まりました。初期の北海道の鉄道は、石炭の輸送を目的として敷かれました。石炭は小樽などの積み出し港に集約され、バラ積み船で運ばれていましたが、青函連絡船は、より速く輸送しなくてはならないモノの輸送が任務でした。本州からは米・麦・野菜などの食料、生活用品、工業製品、北海道からは干物ほか海産物、水産加工品、タマネギ・ジャガイモ・ビートなどの根菜類、酪農品、畜産品などが運ばれました。

比羅夫丸の時代は青函連絡船も、貨物は函館駅あるいは青森駅でいったん貨車から下ろし、船に積み替えていました。でも、これでは手間が掛かるうえに、積み替え中の事故も多発していました。そこで、ドイツとデンマークを結んでいた鉄道連絡船を参考にして、貨物を貨車ごと船に積み込む「車両航送」の導入が検討されました。

1924(大正13)年、ついに本格的な車両航送船・翔鳳丸が就航します。翔鳳丸と姉妹船3隻のほか貨物専用船も就航し、輸送力、特に貨物が飛躍的に増大、戦前の黄金期を迎えます。

戦後、高度経済成長期を迎え、輸送量も急増します。1964(昭和39)年から「海の新幹線」と呼ばれた高速自動化船7隻がつぎつぎ就航、そして北海道旅行がブームとなります。「ホームを走らないと積み残された」とか「若者のリュックで通路もいっぱいになった」とかいう「伝説」は、このころのことです。私がはじめて青函連絡船に乗ったのもこの時代です。1977(昭和52)年には、同型の貨物船6隻を含め13隻が揃い、1日最大30往復体制となりました。

青函連絡船、受難を乗り越える
〜戦争と台風〜

青函連絡船の歴史は、輝かしいものばかりではありません。二度の大きな苦難に遭っています。一つは太平洋戦争。青函連絡船が最初の黄金時代を迎えたあと、日本は戦争の時代へと突入します。戦争末期、北海道の石炭を危険となった沿岸航路を避け、青函連絡船経由で関東まで輸送することが計画・実施されます。このため、青函連絡船は1945(昭和20)年7月にアメリカ軍の空襲を受け全滅。基本エネルギー源を失った日本の戦争続行は不可能になったともいわれています。

もう一つの苦難は、1954(昭和29)年9月に発生した台風15号です。暴風雨が吹き荒れた函館湾で、旅客を乗せた洞爺丸のほか、貨物専用船4隻が横波を受けて転覆沈没します。死者・行方不明者1430人、青函連絡船史上最大の海難事故となりました。のちに気象庁が「洞爺丸台風」と名付けたこともあり、洞爺丸だけが遭難したとおもっている人が多いのですが、貨物船も沈み、乗組員が犠牲になっています。また、「船長が無理して台風の海に出航してしまった」などという人もいますが、実際は運航を休止して、函館港に錨を下ろし避難したうえでの遭難です。

さて、長くつづいた黄金時代も、終わるときがやってきました。昭和40年代後半に旅客・貨物とも過去最大を記録したあと、石油ショックが起きます。その後、旅客は航空機に、貨物はトラック・フェリーに移っていきました。そして、1988(昭和63)年3月、青函連絡船は青函トンネルにその役目を譲り、終航となります。

摩周丸が見せる歴史と海景色

連絡船廃止後、摩周丸は函館に保存されることになり、博物館として公開されています。管理・運営者は何度か変わり、2008(平成20)年から私ども「語りつぐ青函連絡船の会が」、函館市の指定管理者として運営しています。今年でちょうど10年、ようやく博物館としての体裁が整いました。展示だけでなく、資料の復刻や展示の内容を冊子にして頒布することにも力を入れています。しかし、まだ、まとめきれていないテーマもありますし、乗り物の博物館なのに、動く展示物が少ないのも不満です。もう少し業務が減れば、自分でつくるのですが(笑)。何しろ子どものころからの模型マニアですからね。

あと、腐心しているのは、市民の利用促進です。摩周丸からは、港はもちろん、函館山、その麓の西部地区の街並み、坂々が一望できるのです。この海景色、市民のみなさんにも満喫していただきたいですね。ぜひ憩いの場として利用してほしいと願います。「函館港花火大会」や「西部地区バル街」の日などには、開館時間の延長や夜間開館も行っています。青函連絡船は函館の宝。地元の人たちに愛される摩周丸にしていきたいですね。

青函連絡船は函館の宝。地元の人たちに愛される摩周丸にしていきたいですね。

(2018年3月)

函館市青函連絡船記念館 摩周丸

住所/〒040-0063 北海道函館市若松町12番地先 
電話番号/0138-27-2500 
URL http://www.mashumaru.com
開館時間/8時30分〜18時(11〜3月は9〜17時) 
休館日/なし 
入館料/500円、小学生〜高校生250円、未就学児無料

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